テオティワカン(Teotihuacan)


12世紀頃メキシコ北部のメシカ人(後のアステカ人、戦闘的な狩猟民族)は彼らの守護神から霊示された「サボテンの上に蛇をくわえた鷲がいる場所」を求めて
メキシコ半島を南下し中央高原に移ってきた。二つの巨大なピラミッドや城塞を見て、メシカ人たちはそこがかねてから噂に聞いていた神々の住む都市との意味で
「神々の都市」テオティワカンと命名した。メシカ人とはテノチティトラン(後のメキシコシティー)周辺に住んでいたナワトル語族をまとめた総称で19世紀になって
スペイン人によった呼び名である。「メキシコ共和国」や「メキシコシティー」の語源もメシカ人から来ている。建造の時期は紀元後150年から300年とされ、
その後600年頃にかけて繁栄したとされているのが通説、紀元前1500年から前1000年に最盛期を迎えたとする学者や地質学的見地から近くのヒトレ火山が
噴火した紀元前4000年よりも前に建てられたと主張する学者もいる。テオティワカンは20万人の人口を擁していたと推定され、当時のヨーロッパと比較して
コンスタンチノープル以外には人口2万人以上に達する都市がないことから、テオティワカンがいかに壮大なものであったかが判るのである。メソアメリカの都市は
長期間にわたってその造営と増改築が繰り返され都市として整備された。ところが、テオティワカンは、当初に設計された計画に従って、まず中央を南北に貫く
大通りが、その左右にあたかも碁盤の目のように神殿などのピラミッドの建造物が建設されて、百数十年の間に20万平方キロメートルにも及ぶ壮大な都市が完成
している。絵文字模様も幾つか発見されてはいるが、数も少なくテオティワカン人がいかなる種族の人々であったのか、また繁栄を極めた都市がなぜ8世紀頃に
突然放棄され、どこへ消えてしまたえたのか未解明の謎が数多く残されている。王や貴族、神官の他に農民、商人,職人などの人々がともに住んでいたらしいが
宗教都市センターとしては、珍しいことに、メソアメリカの他の遺跡には必ずと言っていいほどある球戯場が発見されていないことも未解明の謎の一つである。



月のピラミッド



太陽のピラミッド



面積は約20Kuで、最盛期10〜20万人が生活、下水網も完備さていた。しかし人口の集中に伴いその処理能力を超え旱魃等の災害により滅びを迎えた



太陽のピラミッドから死者の大通りと月のピラミッドを望む



月のピラミッドから太陽のピラミッドと死者の大通りを望む
「死者の大通り」は全長約4kmありメシカ人がこの地を訪れた際、通りの両側に並ぶ建物の跡を王の墳墓と見違、更には道から多くの遺体が発見されたことに由来する

    

 大通りの途中の壁画

  

コチニール(カイガラムシ、ウチワサボテンに寄生し養殖されて染料に使われてきた)を潰すと真赤な色素     コチニールの真赤な色素で塗られた壁面

  

町中が塗られていたコチニールの真赤な色素の壁面は今でもその色を保っている                    
レストランの踊り 


メキシコシティラベンタ遺跡公園パレンケカラクムルカンペチェカバーウシュマルチチェンイツァトウルムベリーズシティカルペチ
シュナントゥニッチ
ティカルコパングアテマラシティチチカステナンゴアティトラン湖アンティグア
 、アラカル


TOPページへ