タージ・マハル廟


ムガール帝国の第 5代皇帝シャー・ジャハン (在位 1628〜1658) は、1630年に南インドを版図に組み込もうとデカン高原へ遠征。 このとき夫の遠征に同伴した王妃ムムターズ・マハルは身ごもっていた。翌年中部インドのブルハンプルで皇帝の14番目の子供を出産し産褥熱がもとで、38歳で世を去った。ムムターズ・マハルとは 「宮廷の選ばれし者」 という意味でシャー・ジャハン帝に嫁ぐ際に先帝ジャハーンギル (在位 1605〜1627) から授けられた名前である。 彼女は宮廷の名家の出身で結婚後は皇帝のよき相談相手でもあった。シャー・ジャハン帝は終生かわらずムムターズ・マハルを溺愛し、戦場にも伴ったのである。王妃に先立たれると、シャー・ジャハン帝は国中が2年間の喪に服すことを命じ、己も深い悲しみに沈み生涯心が晴れることがなかったという。領土拡大や宮廷政治に意欲を燃やし、「世界の王 (シャー・ジャハン)」 と名乗ったかつての面影はなく、ただムムターズ・マハルを偲び、彼女の記憶を永遠に留めようと墓廟の建設に没頭した。 これこそインド亜大陸で最も壮麗にして典雅な、タージ・マハル廟である。タージ・マハルとはムムターズ・マハルの名前の愛称でシャー・ジャハン帝の溜息が石化したともの言われる。「その偉容と美しさは、天上の七つの楽園をも凌ぐ」 ものであった。


タージ・マハル廟の衛星写真。 雄大な赤砂岩の南門をくぐると、広大な正方形の四分庭園の奥に約 100メートル角で、高さが7メートルの大基壇があり、四隅に細身のミナレット、中央に尖頭アーチ形の大イーワーンを四方に面させた廟本体がそびえる。それまでの廟建築にない新しさは、従来は糸杉を植えた道が直角に交わって 4つの区画に仕切る四分庭園の中央に建てられたが、ここでは四分庭園の奥の部分に、ヤムナー川の対岸を背景にして妨げもない空間のなかに廟を配したことである。


 

本来インドには、墓を建てるという習慣がなかった。 すべての死者は 49日めに生まれ変わるという輪廻 (りんね) の思想に支配されていた。 インドに廟建築がもたらされるのはイスラムの侵入後であって、300年にわたる 「デリーのスルタン朝」 を通して定着し、北インド全体に廟が建てられると、しだいにヒンドゥーのラジプート諸族もこれに倣うようになった。赤砂岩の南門 左の写真は外から、右は内側からの写真です。



左右対称で均整のとれたムガール建築の伝統を引き継いで、それを絶頂にまで高めた廟建築である。

 

    南門の中からの姿は将に白亜の殿堂。                  中央の泉水に姿を映す廟は幻想的に美しい。

 

廟の両側には同じ形をした赤砂岩の建物が廟のほうを向いて建ち、どちらも白大理石のドームを 3面づつ頂いている。西側 (メッカ側) はモスク、東側は迎賓館とされ、幾何学的な庭園の形式を完成させ、廟本体を引き立たせている。

  

象嵌細工の花模様や唐草模様、幾何学紋やカリグラフィー、すべては白を基調とし、建築的枠組みからはみ出すことがない。ドームは二重殻で、天井と屋根それぞれに 二つのドームを重ねてかけている。屋根裏空間は メインの墓室空間よりも巨大でトルコ等の皮膜的な シングル・ドームと比べて多大なコストをかけて美しさを追求している。左右の入口の天井は紫の模様が。



4本のミナレットも廟には必要ないもの 4つの大チャトリも、屋上には上れないので東屋でもない 無用の飾りである。一方、壁面にほどこされた装飾は すべてが控えめなものであって、建築自体の構成から逸脱するものは何もない。



彼はムムターズの廟の完成後に、ヤムナー川の対岸にこれと同じ形の自身の廟を黒大理石で建設することを計画していたしかしその頃には、もはや国庫は底をついた。 次のアウラングゼーブ帝は父親の棺を、タージ・マハル廟の地下墓室の王妃の棺の隣にそっと置たのである。ヤムナー川の西方にアグラ城を望むことが出来る。

  

この廟の建設は大理石装飾の技術を発展させ現在の工房に引き継がれている。


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