デリー


クトゥブ・ミナール

トルコ系のイスラム教徒で、デリーに奴隷王朝を創始することになる将軍アイバクは、破竹の勢いでインド北部を征服するとその勝利の記念にクッワト・アルイスラム・モスクを建設した。 これはイスラムの力 を誇示するインド最古のモスクである。建設には戦闘用の象を使い、27のヒンドゥ寺院やジャイナ寺院を壊したその石材を使ってクトゥブ・ミナール「勝利の塔」 を建造した。 これは今もなお、インドで最も高い石造の塔である。 これはイスラムの勝利をインド人に強く植付けるものであったヒンドゥーとイスラムが混在した様式はインドの工匠たちに負う所が多かった。遺跡群は1993年、世界遺産に登録された。

 

クッワト・アルイスラム・モスク と ヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院が壊された側に建つクトゥブ・ミナール「勝利の塔 」

 

高さ73mで5層の各階にバルコニーがありコーランの文字の浮き彫り(ヒンドゥーの紋様は内側に組み込んでいる)



1315年にハルジー朝のスルタン、アラー・アッディーンは、クトゥブ・ミナールに優る第二の塔を建ててイスラムの勝利を祝おうとしたが1316年に暗殺され第 1層も完成しないうちに工事は中断されてしまったので基部だけが残った「アラーイ・ミナール」の基部の直径は25mあり、完成すれば100mを超える高さになったであろうと言われている。

 

モスクを建てる際には、柱や梁はできるだけ生き物の像の彫られていないものが選ばれた。 表面にそれらが刻まれた石材は、向きを変えたり、目障りな彫刻を削り取ったりして使ったのである。

   

最初のモスクの中庭に、4世紀に鍛造された高さ7.2メートルの忘れ形見ともいうべき独立した鉄柱が立っている。その基部に刻まれた碑文によれば、偉大な王グプタ朝のチャンドラグプタ 2世 (在位 375〜413頃)の記念碑らしい。


フマユーン廟


ムガール朝の第2代皇帝フマユーン (在位 1530〜1540、1555〜1556) は 1530年に帝位を継いだが、 詩歌や葡萄酒を愛し政治や軍事をないがしろにした。その為即位して 10年もたつと皇帝としての権威は地に落ちた。1540年に東インドの総督が反乱を起こし、ムガール朝との戦いにも勝って、シェール・シャーと名乗りスール朝を興した。ペルシャに落延びたフマユーンは15年後にペルシャの大軍率いて帰還してスール朝を破り、1555年にムガル朝を再興した。その際、亡命先から大勢の官僚や職人、芸術家などを伴ってきていた。翌年、この非運の皇帝は宮廷の図書館の階段からの転落事故で死んでしまった。



フマユーン帝の妃ハージ・ベグムは王の死後悲嘆に暮れて、それ以後の生涯をただこの廟の完成のために捧げた。

 

フマユーン廟の衛星写真。四分庭園の中央に建つ高さ 38メートルの中央ドームは二重殻ドームの白大理石で覆われている。

  

ペルシャ人の建築家の指揮の下、ペルシア的な 「チャハルバーグ (四分庭園)」 の形式の廟で皇帝の死後9年目に完成した。この廟には、およそ150人もの死者が埋葬されている。 フマユーン帝、王妃のハージ・ベグム、王子のダーラー・シコー、そして重要な宮廷人たちであったらしい。ただし、それぞれの石棺がどのように配されたのかは分かっていない。


エレファンタ島アジャンタエローラサンチーカジュラホアグラ城タージ・マハルファーテブル・シクリアンベール城ジャイプールアラカルト


TOPページへ