アグラ城


ムガール朝の初代皇帝バーブル(在位 1526〜1530)は中央アジアのフェルガナ出身で、モンゴルのティムールの血を引いていた。 ムガールとはモンゴルの意味。 北インドのデリーとアグラに地歩を固めバーブルは王朝の基礎を築いた。これを大帝国にまで発展させたのが、13歳で帝位につき、50年の長い間、征服と統治にあけくれた第3代皇帝である。「アクバル(大帝)」 と名乗った皇帝ジャラール・アッディーン・ムハンマド (在位 1556〜1605)は文化の擁護者でもありアグラ、デリー、そして ファテプル・シークリー の 3つの都を拡大、建設し、ムガール帝国を壮大な石の建築で飾った。彼はヤムナー河の岩盤上に、この地方で産出する赤砂岩による大城塞を建設し、ここを首都にした。その1世紀後には孫の第6代アウラングゼーブ帝 (在位 1658〜1707) が外郭の城壁をつくり、二重の城壁のあいだを濠とし比類のない堅固な城塞となり「赤い城」とよばれた。アクバル帝の名からアクバラーバードともよばれたが、そのころの建造物はわずかしか残っていない。第5代のシャー・ジャハーン帝が建物を多く建て、ムガール朝の建築芸術を絶頂へと導いた。しかし 17世紀には首都がデリーに移されると凋落し、その後の略奪やセポイの反乱によってかつての栄光を失った。









     写真はアマル・シング門             アグラ城の衛星写真、門は南と西の2箇所にあり、南のアマル・シング門は宮廷地区へと通じた。

アグラでの代表的な建造物はアグラ城とタージ・マハルで位置関係は上の地図の通りである。 

 

まさに名前の通りの「赤い城」です。



ジャハーンギール殿。 跡継ぎの皇帝の名前がつけられているが、紛れもなくアクバル式の建物であって、左右対称のファサードの上にはチャトリ (小塔) が
両端に載り、赤砂岩の壁面には白大理石の象嵌がほどこされている。

  

北インドの大半を征服すると、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和をはかり、ヒンドゥー教徒を要職に登用した。内部はイスラムとヒンドゥー様式の融合を
感じさせる木造的な柱・梁構造からなり、腕木には木彫的なレリーフ彫刻が 。

 

右のバルコニー付きの塔の一角がシャージャハン帝が幽閉されていたムサンマン・ブルジュ (ジャスミンの館) でした。

  

中の装飾は豪華で繊細なものでが、第 6代皇帝アウラングゼ−ブが遠征先のデカン高原で倒れると、各地の藩王国は独立性を高め帝国は弱体化、 それまで戦ってきたインド中西部のマラ−タ王国に侵攻され、2度にわたって騎馬軍団がアグラ城を占拠、略奪した。1857年、インド人傭兵のセポイがイギリスに対して大反乱を起こしたときにこのアグラ城は戦場と化した。

 

タージマハル内部は撮影禁止でしたが同じ様な装飾がありました。



城の中央に表の政庁がありました。独特の二本柱のイスラム様式です。

 



アグラ城からのタージマハル。シャー・ジャハーン帝は最愛の王妃の廟の工事を観ながらに7年間を暮らして世を去った。


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