ウイーン(オーストリア)

ドナウ河沿いの交易地、ウィーンが本格的に発展したのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にウィーンに都を移してからである。バーベンベルク家は断絶、オーストリア公となったハプスブルク家は婚姻政策によりボヘミアやハンガリー等の多くの王国を相続し、神聖ローマ帝国の帝位も独占した。16世紀半ばにはカール5世のもとヨーロッパ最大の帝国を築く。帝都ウィーンにも華やかな貴族文化が栄え17世紀末からは離宮シェーンブルン宮殿が造営され、音楽の都ウィーンの礎となった。ヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家の首都である。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は皇帝ヨーゼフ1世の治下で大規模な都市改造を行い、歴史的建造物やモニュメントを街路に配した旧市街の輪郭が出来上がった。リンクと呼ばれる環状道路はウィーンの近代化のために19世紀に旧市街を囲む堀を埋め立てて造られ路面電車も導入された。歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に指定され、ホーフブルク王宮(現在は大統領官邸博物館、国立図書館)オペラ座、ブルク劇場、自然史博物館、美術史博物館などである。郊外のウィーン会議の舞台で有名なシェーンブルン宮殿も別に世界遺産に登録されている。ハプスブルク帝国は多民族国家で、支配層のドイツ人は人口5千万の1割程度で、各地からの人口流入によりドイツ語、ハンガリー語、チェコ語ポーランド語、イディッシュ語、ルーマニア語、ロマ語、イタリア語等ヨーロッパのあらゆる言語を耳にしたと言われる。あらゆる民族出身の才能が集まりウィーン文化はその絶頂期を迎えた。第1次世界大戦はドイツ帝国、ハプスブルク帝国は敗北、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立 第二次世界大戦はオーストリアを併合したドイツが敗北、ウィーンは米英仏ソ4カ国の共同占領下に置かれたが、1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家が共産圏に組み込まれる中、オーストリアは経済的に西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。日本語ではウィーン、ドイツ語でヴィーン、オーストリア方言ではヴェアン、英語ではヴィエナ(Vienna)フランス語でヴィエンヌ(Vienne)。ウィーンの地名の起源はローマ帝国の宿営地ウィンドボナである。

初日に歴史地区(ホーフブルク、オペラ座、ブルク劇場、美術史博物館等)とシェーンブルン宮殿を観光したが、カメラを置き引きされ撮影写真を失い、同行の方から数枚の写真をご恵送頂きましたが自分の撮影写真ではないので掲載は遠慮しました。最終日のウイーンの森の写真のみです。ウイーンの森は想像していた森と異なり日本で言えば雑木山の感じでした。

 

      リヒテンシュタイン城             シューベルトの菩提樹の3代目だそうです

 

シューベルトが菩提樹の歌を作曲したというヘルドリッヒスミューレのレストラン

  

ハイリゲンクロイツ オーストリア最古1133年の設立のシトー派の修道院。ペスト記念柱が建つ中庭
キリストの磔刑に用いられた十字架の聖遺物が保管されとのこと。


  

列柱の美しい初期ゴシック回廊   泉の建物の窓にはバーベンベルク家の人々を描いたガラス絵

  

ロマネスクの教会は1160年に完成、

 

ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと時代を経ていくうち、次第に華美になった

 

足を洗うキリスト  足を洗ってもらうキリスト 回廊の両脇にある彫刻
展覧会に貸し出されていて絵が貼ってあった。 写真は絵葉書

 

マイヤーリンク 1989年にハプスブルク家のルドルフ皇太子と男爵令嬢マリア・ヴェッツェラが心中した
皇太子の狩りの館、今は修道院となっています。
名映画「うたかたの恋」の舞台

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