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東武鉄道熊谷線

1943.12.5 熊谷−妻沼間開通
1983.6.1  全線廃止

 当時大学1年だった作者がはじめて廃止になると聞いて乗りに行った路線です。

 もともとこの線は、戦争中に利根川をはさんだ中島飛行機(現富士重工)への連絡のために軍が東武に命じて敷設させた路線で、東武小泉線の西小泉から千石河岸までの新線の中間の新小泉で接続させる計画でした。1943年12月5日に開通しましたが、全線完成しないと収支が償わないと見られたので、4割増の営業キロが認められ、廃線までそのままでした。
 その後新小泉までの延長工事に取り掛かりましたが、終戦により中止になり、そのまま伊勢崎・日光線系にも東上線系にもつながらない孤立した路線となり(建設のいきさつから伊勢崎・日光線系の路線図には出ていました)、1954年にキハ2000系が登場するまではSLが客車を牽引していました。なお正式名称は「熊谷線」ですが、地元では「妻沼線」と通称されていたようです。

 結局延長されることなく赤字を理由に廃止されたのですが、何故延長されなかったのかというと、太田付近の人は東京に出るのに東武の急行「りょうもう」号(現在は特急)に乗っているが、もし熊谷線が延長されると熊谷から国鉄に乗ったほうが早く、しかも上野に直接行けるので、作ったところで損するからだそうです。

 当時の大手民鉄14社の中の唯一の非電化路線で、気動車を持っていたのは東武の他名古屋鉄道と南海電気鉄道がありましたが後2社は国鉄直通用で、南海は1985年3月に国鉄乗り入れを中止、名古屋鉄道は特急「北アルプス」用のほか、1984年9月から閑散線区用にレールバス(キハ10系)を導入し、さらに軽快気動車(キハ30系)を増備し、八百津線と三河線猿投−西中金と碧南−吉良吉田間の電化を廃止しました。2001年9月30日限りで名鉄は八百津線と北アルプスを廃止し、8500系気動車を会津鉄道に譲渡したので、大手私鉄に残る気動車は名鉄三河線用のキハ10・30系のみとなりましたが、両区間とも2004年3月31日限り廃止され、同時に大手私鉄から気動車が消滅します。

 現在は上熊谷から500メートルまでは線路跡が残っていて、その後は緑道に変わっているそうです。妻沼駅舎もめぬまニュータウン建設の際取り壊され、妻沼のバス停もニュータウンの中に移設されたそうです。詳細は鉄道ジャーナル社発行の「旅と鉄道」2001年冬の号(No.129)のタビテツ探検隊「妻沼線はいま」に出ていますので参照してください。
 対岸の西小泉−千石河岸間も後に廃止され、西小泉から戦後設置された三洋電機の工場までの間の線路跡は遊歩道になっています。

乗車 1983年5月4日

 
東武2000系気動車。国鉄キハユニ16を連想させる湘南マスクですが、ヘッドライトがいかにも東武といった感じです/運転席も国鉄気動車とほぼ同じで、表示灯(エンジンや変速機等の状態を表示)は10系気動車で使われていたものです。1954年製なので当然といえば当然ですが。

 
車内はセミクロスシートで、肘掛がないのも10系気動車と共通です。通学生が多いのは、当時の5月4日は平日で、休日になったのは1988年からです/畑の中をほぼ直線に走っていますが、もともと日本軍の命令によって敷設された路線なので、用地買収の際は軍の力がものを言った事でしょう。

駅名 起点からのkm 開駅年月日

熊谷 0.0 1943.12.5

上熊谷 0.9

 熊谷−上熊谷間は秩父鉄道と並行していて、上熊谷のホームは両面を秩父鉄道と熊谷線で共用していました。現在も熊谷線の線路は残っており、熊谷線側にはフェンスが設置してあるそうです。
 この写真は運転席の窓越しに撮ったため、窓ガラスに張ってある標語が写っています。


大幡 6.1


妻沼 10.1 1943.12.5
 
いかにもローカル線の終着駅といった感じの駅舎ですが、当時の東武にはまだこうした駅が多く残っていました/駅名標が北海道の相生線や渚滑線の仮乗降場にあった「プラカード型駅名標」を彷彿とさせます。横に立っているのは20年前の作者です(当時19歳)


 
朝5時15分始発はいいとしても、終列車の21時22分(熊谷発だと21時5分頃)は早過ぎる気がします。せめて23時頃までは走らせたほうがよかったのでは。列車間隔が不揃いなのも気になります/廃線及びバス代行のお知らせ

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