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岩 内 線


国鉄監修「交通公社の時刻表」1984年12月号より転載

1912.11.1 岩内軽便線として開通
1922.9.2  岩内線に改称
1985.7.1  全線廃止

 水上勉の推理小説「飢餓海峡」に岩内線が岩幌線という名で出ています。1954年9月の洞爺丸台風及びそれが原因の3,000戸が焼失した岩内大火をからめた小説で、この中で「まるで忘れられたようなローカル線」と表現されています。それほど地味な線区だったようです。

 岩内から10km北に茅沼炭鉱があり(かつてあった?)、ここが日本の鉄道の発祥と言われています。江戸幕府が開鉱準備をしていましたが明治維新となり、1869年に北海道開拓史によって再興され、ここの坑口から海岸まで自然の傾斜を利用した鉄道が用いられました。木のレールに鉄板を張ったもので、上部では手動のケーブルで1トン輪車(トロッコ?)を動かし、下部は4トン輪車を自走させ、上りは牛で引き上げました。

 岩内に初めて鉄道が開通したのは1908年開通の岩内馬車鉄道でした。函館本線の前身の北海道鉄道(富内線の前身の北海道鉄道とは別)は当初然別から赤井川を経由して倶知安へ向かう予定だったところ、岩内では鉄道同志会を結成して岩内経由への変更運動を行ったものの、小沢経由にはなりましが岩内経由は実現しませんでした。そこで小沢駅と町を結ぶための岩内馬車鉄道会社を設立しました。軌間は762mmで1日7往復で所要約2時間、運賃は25銭でした。1912年11月1日に国鉄岩内軽便線が開通すると翌年に廃止されました。

 北海道鉄道が国有化されて函館本線になっても鉄道建設の猛運動が続けられ、1911年10月に軽便鉄道法に基づく軽便線として建設が始まり、翌年11月1日に全通しました。1953年に鉄道敷設法別表が改正され、「130ノ2 後志国黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鉄道」が追加されました。黒松内−小沢間のショートカットを目的に1964年に建設が開始され、黒松内−寿都間は1971年に廃止された寿都鉄道の路盤を使用する予定でしたが測量設計と一部の用地買収が行われただけで中断しました。もともと海線(室蘭本線)回りのほうが速いので1986年11月に山線回りの優等列車が全廃されるくらいですから無意味と言えば無意味ですが、1960年代までは小樽の地位は相当高かったので山線の輸送力増強は急務だったのでしょう。

 1961年頃をピークに輸送量は減り続け、最大のお得意様は通学の高校生でした。1968年の赤字83線にも名を連ね、国鉄再建法による特定地方交通線選定の際は基準期間の輸送密度が853名だったため第1次廃止対象に選定されました。モータリゼーションに加え、ニセコバスと北海道中央バスがフリークェントサービスを行っていたこと、対札幌にしても北海道中央バスの特急「いわない号」のほうが便利なことから廃止運動は今ひとつ盛り上がらず、地元でも廃止やむなしの雰囲気となり、1985年7月1日にニセコバスに転換されました。

 作者が岩内線を訪れた際、行きの925Dで居眠りしてしまい目が覚めたのが岩内で、慌ててチャレンジ20,000の証明写真を撮影して折り返しの926Dで小沢に戻りました。もともと札幌発21時25分発の函館行き46レで1時41分に着き、2時47分発(着は2時10分)の札幌行き41レで折り返して452分に小沢に着き、923Dで岩内に着き、1時間20分の滞在後926Dで戻る予定が41レで寝過ごして小沢の次の銀山に行ってしまい(5時7分着)、6時50分発の函館行き124レで小沢に戻り、925Dに乗りました。もし岩内で寝たまま折り返していたら証明写真が撮れず、せっかく乗ったのに未踏破となるところでした。北海道旅行も終盤となり、疲れが出ていたのかもしれません。次の928Dにしなかったのは岩内発が11時41分となんと4時間後で、これでは瀬棚線が暗くなってしまうためでした。

乗車 1985.2.28全線往復

駅名 起点からのkm 開駅年月日

(小沢) 0.0

国富 2.5 1913.9.21


幌似 6.0 1919.12.5


前田 9.0 1912.11.1


西前田 12.1 1963.11.1


岩内 14.9 1912.11.1


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