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福知山線(塚口−尼崎港、通称尼港線)


「国鉄監修 交通公社の時刻表」1980年12月号より転載


朝日新聞社asahi.com 2005年5月1日「線路付け替えでカーブが急に 尼崎・JR脱線事故」より転載

1893.12.12 池田(後の川西池田)−尼ヶ崎(後の尼崎港)間阪鶴鉄道として開通。当初は貨物線
1894.3.6   塚口駅開業
1898.6.8   東海道本線神崎(後の尼崎)−塚口間阪鶴鉄道として開通。
1907.8.1   阪鶴鉄道買収。
1909.10.12 現在までつながる国有鉄道線路名称が制定され、阪鶴線の部阪鶴線の貨物支線となる。
1911.9.6   客扱開始に伴い、阪鶴線のところに塚口−尼ヶ崎間と区間を明記。
1911.9.6   東海道線との交差付近に神崎乗降場(後の尼崎乗降場)開業。
1912.3.1   東海道線の部福知山線の支線となる。
1981.4.1   旅客扱いを廃止、荷物と車扱貨物のみとなる。
1984.2.1   廃止

 大阪の近くにありながら、1日2往復、それも客車2両をDD13が牽引するという、北海道や九州のローカル列車も顔負けの運行形態をとっていました。国鉄内部では尼崎乗降場を「ドテカン」駅、尼港線列車を「ドテカン」列車と呼んでいました。これは、尼崎が神崎だった頃、東海道線の駅と区別するため、神崎乗降場が土手の上にあったので「土手の神崎」からとったのだそうです。この点については、元大阪車掌区車掌の坂本 衛氏著「車掌『裏』乗務手帳」(山海堂)46、231ページを参照してください。
 1981年3月の高校3年生になる前の春休み、神戸のポートアイランドで開催された「ポートピア'81」に行った際、電車内の国鉄の広告で宝塚電化と引き換えに尼港線が廃止になることを知り、乗りに出かけたものの神戸の親戚の家を出るのが遅かったため結局間に合わず、4.6キロだからと沿線を歩きました。

 2005年4月25日午前9時20分頃、塚口を発車した宝塚発同志社前行き上り快速電車が右カーブで脱線し、死者107名、負傷者460名を出す大惨事が発生しました。上記の建設の歴史を見ればわかるとおり、もともとは塚口から尼崎港へまっすぐ南下する路線だったのを、塚口からS字カーブで東海道本線尼崎につないだのですが、このときの事故現場のカーブは半径約600メートルでした。1997年3月8日のJR東西線尼崎乗り入れの際配線が変更され、半径約300メートルとカーブがきつくなりました。
 1980年12月号の時刻表によると、当時の福知山線の列車本数は、下り大阪発(尼崎発着はなく、すべて大阪発着)の定期列車で、普通・快速19本、急行7本、特急2本の少なさで、とても大阪駅に近いとは思えないほどのローカル線?ぶりでした。宝塚電化後の1981年6月号では同じく普通・快速36本、急行7本、特急2本と、普通・快速が倍増していますが、それでも宝塚以遠へ直通する客車、気動車列車が大半でした。
 1986年11月、宝塚−城崎(現城崎温泉)間の電化が完成し、特急「北近畿」が登場すると同時に全面的に電車化されました。
 1997年3月8日、JR東西線が開通し、尼崎で東海道線、福知山線と接続する形になり、列車本数が激増し、5分間隔で走っています。
 上記の尼崎での接続に加えて並行する阪急とのスピード競争もあり、きわめて余裕の少ないダイヤが組まれている上に塚口から上り勾配になっていて加速が必要なのにすぐ例のカーブで70キロ制限になるので運転士泣かせの区間だったそうです。このほか2003年12月のダイヤ改正で宝塚−川西池田間にある中山寺が快速停車駅になったにもかかわらず、所要時間が変更されていませんでした。その上これだけの列車密度があるにもかかわらずATS−Pが未設置と、24年の間に急激に列車が増えたのに設備面が追いついていないなと感じました。北側国土交通大臣は5月2日、「『ATS−P』を設置しない限り、運行再開を認めない」と表明しました。
 この事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、負傷された方にお見舞いを申し上げます。

1981年3月29日沿線を歩く

駅名 起点からのkm 開駅年月日

(塚口) 0.0

尼崎乗降場 2.5 1911.9.6神崎乗降場
            1949.1.1改称

東海道線尼崎と同一駅扱い
右は4月1日の宝塚電化に向けて試運転中の福知山線用103系
 

金楽寺 3.0 1912.4.16


尼崎港 4.6 1893.12.12尼ヶ崎
         1949.1.1改称

駅舎は阪神高速の下にありました。